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自己紹介– 海から陸へ、そしてデジタルの海原へ ―― 感動を伝える旅の記録 –

ご挨拶

自己紹介をご覧いただき、誠にありがとうございます。
成瀬海人(なるせかいと)と申します。

私は8年間のダイビングインストラクター経験を通じて培った「人を導く力」と「分かりやすく伝える技術」を活かし、現在はkindle本の出版支援とコンテンツマーケティングの分野に挑戦しています。

「知識を価値に変える」という理念のもと、一つ一つの作品に真摯に向き合い、著者様の想いを大切にしながら、質の高いコンテンツ制作に取り組んでいます。
お客様と共に成長し、新たな価値を生み出せる関係性を目指してまいります。

幼少期から競技生活

1980年代生まれの私は、典型的な昭和の子どもとして育ちました。
当時を思い返すと、冬の制服の袖口は凍てつく寒さで硬くなり、鼻水でカピカピになった記憶が蘇ります。
夏は際限なく続く青空の下でプールに興じ、真っ黒に日焼けした肌で帰宅する毎日。
そんな懐かしい風景が、今でも鮮明に心に残っています。

人生の大きな転機となったのは、小学生時代に出会ったソフトボールでした。
当時は身長が低かった私にとって、野球への夢は遠く感じられました。
中学時代には野球部への憧れもありましたが、プロ選手への道は現実的に厳しいと考え、ソフトボールという道を選びました。
これは後になって、私の人生を大きく変える決断となりました。

思い返せば、この選択は非常に賢明なものでした。
ソフトボールは競技人口が少なく、県内でも数校しか部活動として存在しないマイナーな競技でした。
しかし、その競技人口の少なさは、逆説的に全国大会出場という夢を現実的なものにしてくれました。

私はソフトボールに全てを捧げました。
24時間、ひたすらソフトボールのことを考え、朝は誰よりも早く起きて走り込みを行い、放課後は日が暮れるまで素振りを続けました。
試合前夜は、バットを抱きしめて眠るほどの情熱を注ぎ込みました。
その姿は、周囲から見ると異常なほどの没頭ぶりだったかもしれません。

そんな努力が実を結び、高校時代には3年連続でインターハイに出場。
目標としていた1回戦突破も果たし、大きな自信となりました。
また、国体にも3度の出場を果たし、全国レベルの選手たちと競い合う貴重な経験を積み重ねることができました。

最も印象に残っているのは、インターハイでの1回戦突破を果たした試合です。
チーム一丸となって勝ち取った勝利は、今でも私の心の中で特別な輝きを放っています。
その時の興奮と喜び、チームメイトとの抱擁は、生涯忘れることのできない思い出となりました。

高校卒業後は、夢であった実業団でのプレーを叶えるべく、一部上場企業への就職を果たしました。
これは単なる就職ではなく、私にとってはソフトボール選手としての新たなステージへの挑戦でした。
当時は、この先も永くソフトボールと共に歩んでいけると、漠然と信じていました。

この時期の経験は、後の人生における重要な教訓となりました。
目標を持ち、それに向かって全力で取り組むことの大切さ、そして何よりも、自分の可能性を信じることの重要性を学びました。

挫折と再起への道のり

しかし、人生は時として予期せぬ方向に進むものです。
私にとって「命」そのものだったソフトボールとの突然の別れは、想像を絶する精神的打撃となりました。
全国大会での活躍、実業団での選手生活、そしてその先のキャリアまで、描いていた未来が一瞬にして崩れ去ったのです。

およそ半年間、実家の二階に引きこもる日々を送りました。
朝は目覚めても布団から出られず、日中はただぼんやりと天井を見つめ、夜は過去の記憶に苛まれる。
そんな虚無的な時間が、永遠に続くかのように感じられました。
今思えば、明らかなうつ状態でした。医師の診察を受けるべきだったのかもしれません。

私の心を最も苦しめたのは、「なぜ」という答えのない問いでした。
なぜこんな形で終わらなければならないのか。なぜ私だけが。
そんな自問自答を繰り返す中で、徐々に自己否定の念が強まっていきました。

その暗闇から私を救ってくれたのは、母の涙でした。
ある夜、トイレに行くために階下に降りた時、台所で啜り泣く母の姿を目にしました。
その瞬間、私は自分の惨めさに愕然としました。
家族の心配をよそに、自分の殻に閉じこもり続けていた愚かさを痛感したのです。

その夜、二階の自室に戻った私は、久しぶりに涙を流しました。
しかし、それは自己憐憫の涙ではなく、新たな決意を固めるための涙でした。
母への感謝と申し訳なさ、そして何より、ここから這い上がらなければならないという強い覚悟が、胸の内に芽生えました。

翌朝、私は長い眠りから覚めたかのように、新しい一歩を踏み出す決心をしました。
ソフトボールで培った精神力と向上心を、違う形で活かしていこうと考えたのです。

就職氷河期を生きる

新たな一歩を踏み出そうとした矢先、私を待ち受けていたのは就職氷河期という厳しい現実でした。
高卒で職歴が不安定だった私にとって、就職活動は想像を絶する困難を極めました。
しかし、以前勤めていた会社が大企業だったおかげで、有給休暇が十分に残っていたことは不幸中の幸いでした。
履歴書上の空白期間を最小限に抑えることができたからです。

当時の就職市場は、バブル崩壊の影響で企業の採用意欲が著しく低下していました。
大手企業の門戸は固く閉ざされ、面接にたどり着くことすら困難な状況でした。
採用担当者の目には、高卒で職歴が不安定な私は、決して魅力的な人材には映らなかったことでしょう。

そんな中で手にすることができた仕事は、派遣会社やいわゆるブラック企業と呼ばれる職場ばかり。
低賃金で長時間労働を強いられ、今思えば労働基準法にも抵触するような過酷な労働環境でした。
それでも、生活のために耐え忍ぶしかありませんでした。

一つの職場で長く働くことができず、転職を繰り返す日々。
それは、まさにロストジェネレーションの荒波に翻弄される時期でした。
同世代の多くが同じように苦しんでいることは分かっていても、その事実は私の現実を何ら改善してはくれませんでした。

この時期は、私の人生における最も暗い時期の一つでした。
しかし、振り返ってみれば、この経験が後の人生に大きな影響を与えることになります。
厳しい現実と向き合い、それでも前に進もうとする強さ、そして何より、「このままではいけない」という強い危機感が、次の転機へとつながっていったのです。

バンコクでの苦闘

人生の転機を求めて選んだのは、タイ・バンコクへの移住でした。
数年前の旅行で触れた人々の温かさ、朗らかな笑顔、そして活気に満ちた街の雰囲気に、私は心を奪われていました。
「このまま日本にしがみついていても、未来は見えない」
そう考えた私は、わずかな貯金と大きな期待を胸に、片道航空券を手に飛び立ちました。

しかし、渡航初日から、予期せぬトラブルが私を襲います。
政情不安によるスワンナプーム国際空港の封鎖に遭遇し、経由地の北京で足止めを余儀なくされたのです。
見知らぬ土地で、限られた資金を使いながらの待機。
不安と焦りの中、現地で出会った日本人旅行者と行動を共にしながら、状況の好転を待ち続けました。

ようやくバンコクにたどり着いたものの、そこで待っていたのは厳しい現実でした。
リーマンショックの影響は、タイにも大きな影を落としていたのです。
当初は仕事が見つからず、一日の食費を150円に抑えなければならない日々が続きました。
屋台で最も安価なチャーハンを半分に分けて昼夜をしのぎ、エアコンの効いた商業施設で涼みながら時間を潰す。
そんな極限の生活が、一時期続いたのです。

しかし、諦めずに求職活動を続けた結果、日系の部品メーカーに営業職として採用されました。
そこから私の生活は一変します。
週に4〜5日はASEAN諸国への出張が続く忙しい日々。
納品に関する交渉や情報交換のため、各国を飛び回る生活が始まりました。

観光する時間はほとんどありませんでしたが、その分、現地の美味しい料理を堪能したり、出張先での小さな発見を楽しんだりしました。
特に、マレーシアやインドネシアでの経験は印象深いものでした。
それまでほとんど接点のなかったイスラム教文化に触れ、祈りの時間を大切にする人々の生活様式や、独特の食文化に深い感銘を受けました。

夜市で香り立つスパイス、モスクから響く祈りの声、熱帯特有のスコールの音。それらは全て、私にとって新鮮な驚きでした。言葉は通じなくても、微笑みと誠意で通じ合える瞬間も多く、人との縁の不思議さを実感する日々でした。

この時期の経験は、私の視野を大きく広げてくれました。
言語や文化の壁を越えて、ビジネスを通じて人々と関わることで、コミュニケーションの本質を学びました。
また、異なる価値観や生活習慣に触れることで、物事を多角的に見る目も養われました。

極貧生活から始まり、ASEAN諸国を飛び回るビジネスマンへと変貌を遂げたこの経験は、私に大きな自信を与えてくれました。どんな状況でも諦めずに前進すれば、必ず道は開けるという確信を得られたのです。

しかし、この充実した日々も、予期せぬ形で終わりを迎えることになります。
工場が洪水の被害に遭い、私は再び人生の岐路に立たされることになったのです。
それは、次なる挑戦への序章となりました。

新たな挑戦:ダイビングインストラクターへ

タイでの生活が行き詰まりを見せる中、私は人生を大きく変える決断をしました。
「会社員という枠組みから離れ、海のある場所で、自然と共に生きていこう」
東南アジアの国々を旅する中で、この想いは次第に確信へと変わっていきました。

32歳という決して若くない年齢で、未経験からダイビングガイドの世界に飛び込むことは、大きな賭けでした。
しかし、沖縄のダイビングショップは、そんな私を温かく迎え入れてくれました。
今でも、その時のオーナーの「やる気があれば、年齢は関係ない」という言葉が心に残っています。

研修期間は想像以上の厳しさでした。
特に、1月の沖縄の海は私の予想をはるかに超える過酷さでした。ウェットスーツを着ていても、容赦なく冷水が体に染み込み、歯が震えるほどの寒さに何度も心が折れそうになりました。

そんな中、先輩ガイドが譲ってくれたフードベストは、まさに救世主でした。
「これがあれば大丈夫。私も最初はこれで乗り切ったから」
その温かな言葉と共に手渡されたフードベストのおかげで、厳しい冬の海も乗り越えることができました。

基礎研修を終え、インストラクターとしての第一歩を踏み出した時の喜びは、今でも鮮明に覚えています。
初めて担当したゲストが水中で見せた感動の表情、ダイビング後の「ありがとう」という言葉。
それらは全て、この仕事を選んで良かったという確信に変わっていきました。

その後の8年間は、まさに私の人生における黄金期でした。
沖縄本島では、様々な年齢層のゲストにダイビングの魅力を伝え、パラオ共和国では世界有数の海の美しさに魅了され、石垣島では豊かな自然と共に生きる喜びを感じました。

特に印象に残っているのは、パラオでの経験です。
ブルーコーナーでのサメの群れとの遭遇、ジェリーフィッシュレイクでのクラゲたちとの神秘的な時間、そしてロックアイランドの絶景。
それらは全て、私の人生における宝物となっています。

石垣島では、マンタとの出会いが日常的な出来事となり、時には親子3代でダイビングを楽しむ家族の思い出作りに携わることもできました。
季節ごとに変わる海の表情を肌で感じながら、自然の雄大さと生命力を実感する日々でした。

この8年間で私は、単なるダイビングのインストラクターを超えて、海の魅力を伝えるストーリーテラーとしても成長できたと感じています。
言葉の壁を越えて、世界中のゲストと感動を共有し、時には環境保護の大切さを伝える役割も担いました。

振り返ってみれば、32歳での決断は、私の人生で最も価値のある選択の一つだったと確信しています。
会社員時代には想像もできなかった充実感と、自然と共に生きる喜びを、この仕事を通じて見出すことができました。

デジタルコンテンツクリエイターとしての道

最初は、思うように文章が書けず、苦戦の連続でした。
デジタルマーケティングやSEOなど、新しい知識を習得する必要に迫られ、深夜まで勉強する日々が続きました。
それでも、かつてダイビングで培った「諦めない心」と「人に伝える技術」を信じて、一歩ずつ前進を続けました。

多くの書籍を読み、オンラインセミナーに参加し、実践を重ねる中で、少しずつライティングの本質が見えてきました。
それは、ダイビングでゲストに海の魅力を伝えることと、本質的には変わらないことに気づいたのです。
相手の目線に立ち、分かりやすく、そして心を動かすように表現する。
その原則は、水中でもオンラインでも同じでした。

転機となったのは、あるブログ記事への読者からのメッセージでした。
「この記事を読んで、人生が変わりました」という言葉に、私は深い感動を覚えました。
それは、かつてダイビングで初めて海の世界に触れたゲストが見せてくれた感動の表情と、同じ輝きを持っていたのです。

その経験を通じて、私はライティングに新たな使命を見出しました。
「知識を価値に変える」というミッション。
これは単なるスローガンではなく、一人一人の人生をより豊かにするための具体的な行動指針です。

現在は、このミッションの下、kindle本の出版支援やコンテンツマーケティングのコンサルティングを行っています。
著者様お一人お一人の想いに寄り添い、その知識や経験を価値ある形に変換していく。
その過程で、私自身も新しい学びと成長を実感しています。

特にkindle本の出版支援では、著者様の人生経験や専門知識を、読者の心に届く形で表現することに力を注いでいます。
「伝えたいことがあるけれど、どう表現すれば良いか分からない」そんな著者様の想いを、具体的な形にしていく作業は、私にとって最もやりがいを感じる瞬間です。

この新しい挑戦は、私の人生における次なる大きな飛躍の第一歩だと確信しています。
海の世界で学んだ「感動を伝える技術」と、ビジネスの世界で培った「価値を創造する力」。この二つを組み合わせることで、より多くの方々の人生を豊かにする。
その大きな可能性に、私は心が震えるほどの期待を感じています。

2024年、私は新たな船出の準備を整えました。
2025年を、飛躍の年にする。
そう強く心に誓っています。

追伸:海への想い

私の心の中で、沖縄の海は今なお特別な存在であり続けています。
インストラクターとして初めて潜った沖縄本島の海は、その美しさに涙が出るほどでした。
色とりどりのサンゴ、虹色に輝く魚たち、どこまでも続く青い海。その光景は、今でも鮮明に心に刻まれています。

しかし、わずか4年後、同じポイントに戻った時、そこには異なる光景が広がっていました。
かつての鮮やかなサンゴは赤茶けた岩場と化し、魚影も少なくなり、海全体が物悲しい表情を見せていました。
毎年8月後半になると報道される石西礁湖(石垣島と西表島の間にあるサンゴ群)の白化現象。
基地移設先となった大浦湾(辺野古)の「海が禿げている」といううみんちゅの言葉。
それらは全て、私たちの海が直面している危機を物語っています。

現在、私は月々の収入の一部をサンゴの養殖事業に寄付することを習慣にしています。
金額は決して大きくありませんが、この継続的な支援が、少しでも海の再生につながることを願っています。
また、環境保護団体が主催する啓発活動にも積極的に参加し、海の現状を多くの人々に伝える活動も行っています。

将来的には、サンゴ移植のNPO法人を設立することを夢見ています。
これまでの経験を通じて学んだ「夢の実現には、現実的な戦略と継続的な努力が不可欠である」という教訓を胸に、一歩ずつ準備を進めていきたいと考えています。

海のない土地に住んでいても、私の海への想いは決して薄れることはありません。
むしろ、離れているからこそ、その大切さをより深く実感しています。